PROPS プロトーク [第2回] 開発・オペレーション|討議編(1)

レビュー/再録


2012年12月9日(日) に開催された「PROPS プロトーク [第2回] 開発・オペレーション」の討議について、ほぼ全文書き起こしを公開します! 討議はPROPSの用意した質問に基づいて進めたものです。Speaker:川原秀仁、中尾俊幸、net_heads、藤村龍至 Moderator:納見健悟、平塚 桂

Q1.縮小の時代において、なぜ開発に向き合っているのか

今後の日本を考えるため
藤村

藤村――私は76年生まれで、ちょうど80年代の開発が最も華やかな頃に育ちました。大学入学の頃に阪神・淡路大震災やオウム真理教事件などが起き、やがてまちづくりの時代へと変化しました。今日は隣に(山下設計を前身とする)山下ピー・エム・コンサルタンツの川原さんがいらっしゃいます。私は山下設計が手がけた霞が関ビルディングがつくられた1968年から2011年の東日本大震災までが、日本の開発の時代だったのではないかと思います。それが終わりを迎え、先日の笹子トンネルの崩落事故に象徴される老朽化の時代がやってきた。つくってきたモノをどうすべきか考える時代に入ったのではないでしょうか。今後の日本の縮小社会を考えるためには、これまでの開発の時代というものを総括する必要があるのではないかと考えています。

(成熟した先進国としての)明日の日本のため
川原

川原――縮小の時代と最もフィットする話は統廃合です。(※)CRE戦略あるいはPRE戦略といわれるような、企業や行政が保有する施設をいかに有効活用するかという話は、基本的には統廃合の立場からいわれてます。統廃合するには、今とは異なる施設体系でまとめなくてはいけません。建築の世界だけの話ではありません。すべての産業、企業、業種がみんな、複合的に変わろうとしています。これから生き残ることができるのは、その複合的自由を構築できる人ではないかと考えて、現在のような仕事をしています。

※企業や行政の保有施設を利活用する戦略のこと。CRE=企業が保有する不動産(Corporate Real Estate)、PRE=公的な不動産(Public Real Estate)。

平塚

平塚――藤村さんが「阪神・淡路大震災とオウム真理教事件」などを挙げて時代背景と都市開発の変遷、およびご自身の問題意識を整理されましたが、みなさんが現在のような問題意識を持つに至ったきっかけは何ですか?

川原

川原――私はバブルの頃ですね。その頃私は役所(農用地整備公団)にいたのですが、建設業は蝶よ花よという時代。私自身はその状況に疑問を持っていました。当時、リゾート法とかアメニティとか、いろんな新しい言葉が出てきました。それらを複合した形で事業を行わないといけない、事業としてちゃんと持続可能なものは何かと考えていたんです。(※)グリーンピアに代表される、箱物で物ごとを成り立たせようとする間違った行政がいずれ日本を滅ぼすのだろうと思っていたら、まさにそうなっていきつつあります。農業の世界でも当時は自由化が求められ、日本では農業は成り立たなくなるといわれていました。この頃から私は逆に米や牛肉を世界に売りだせばいいと考えていたのですが、今になって優秀な農作物や食品が外販されるようになってきています。やはり足腰の座ったものが重要でした。実際の産業や事業に根ざした解決策と成果品を提供しないといけないんじゃないかという当時の問題意識が、現在につながっています。

※厚生省により70年代に計画され、80年代に設置された全国13カ所に被保険者、年金受給者のための大規模保養施設を建設するという、官によるリゾート開発。2001年12月の閣議決定で廃止。2005年度中にすべて民間に譲渡された。

本討議の前に行われた川原さんの自己紹介のための資料(計1枚)。さまざまな経験を通じて、山下ピー・エム・コンサルタンツにおける現在のような事業に至ったことがわかる。肩書きは発表当時のもの。

納見

納見――バブルの時代は事業ではなく、むしろ建物自体が世界に通用するという時代感があったのではないでしょうか。

川原

川原――当時はまず予算ありきで、その予算は建物をつくるためのもの。運営や事業は後付けでした。そんなやり方で成り立つわけがないと思っていても、どんどん認可されてしまう。そんな状況でした。

全国各地域のの暮らし、賑わい、公共サービスに
真剣に向き合った再生・再編の必要性
中尾

中尾――私にとっても阪神・淡路大震災は大きかったかと思います。当時は関西で学生をしており、震災を経験し現地を見て、防災が最も大事だと感じました。ただ防災といっても、いい環境と防災をどう両立するかということが重要で、非常に難しい。いま再開発コーディネーターとして、被災地である石巻の中心市街地を支援する活動をしています。堤防を高くするとまちと水の関係が崩れてしまい、普段の暮らしの中で川を見ながら暮らすことが難しくなる。まちと防災、暮らしをどうやってつくっていくかを地道に考えているところです。阪神・淡路大震災と東日本大震災を比較してみると、たとえば神戸市と石巻市では行政の力がだいぶ違います。神戸市は市としての開発の底力や発展性があって、物事を比較的即座に進められる性質があったと思います。一方で石巻市の場合は少しふらふらしてしまうというか、将来に向けた次の回答があまり見えていないというのが辛いところです。

「拡大の時代」の開発のその後が負の遺産と
なりつつあるのを見過ごせないから
neat_heads

net_heads――私は大学では歴史研で東南アジアをフィールドとして保存修復に携わっていましたが、大学を出る時に設計者として生きていく道を選びました。キャリアの中途でシンクタンクで派遣社員として働いていた時に、新幹線や道路というインフラに関する情報を見聞きする機会がふえました。都市部の再開発の課題はインフラ、道路なんです。たとえば道路の付け替えが必要というときに行政側が解決する能力がなくなってきているので、民間の事業者たちが自ら考え、自ら解決する道筋をつくっていかなくてはいけない。そういう状況で仕事に携わる中で、考えが固まってきました。

藤村

藤村――確かに私自身にとってのきっかけは95年なんです。ただ、その前にすでに経済危機、つまりバブル崩壊によって変化の予兆といいますか、ショックを受けて、決定打になったのが95年ということなのかなと。中尾さんの話をうかがってやはり世代が近いなと思ったのですが、80年代の神戸は本当に輝いていたんですよね。株式会社神戸市と呼ばれ(※)「山、海へ行く」という開発がなされた、日本の開発主義の最もコアな場所でした。私の父は神戸出身なんですけど、神戸に春休みと夏休みに行くのが本当に楽しみで行くたびに地図を買って帰りました。そうすると、山ができたり、山が削られて街ができたり、海に島ができたり、そういう街だったのが95年に全部崩壊しちゃったわけですよ。それは喪失感をともなうもので、今まで自分がイメージしてきたものが一体なんだったのか、それを考えないと次の時代は切り開けないと思うので、川原さんのお話はとても興味があります。

※六甲山のニュータウン開発で生じた土砂を用いてポートアイランドを代表とする人工島を臨海部に埋立造成し商工業、住宅、港湾用地へと整備した際の合言葉。